映像探偵団 

We are Footage Researchers

30年過ぎてました。

1991年6月3日に

テレ朝人気報道番組から放送の仕事始めて30年が経ちました。

当日昼過ぎに入ったニュースが雲仙・普賢岳噴火。

初日いきなり現場の怒涛っぷりを味わいました。

以降、22時に放送始まると同時に鳴る視聴者からの電話対応

前のスタッフは受話器を取ろうとすると

手が震えてしまい辞めていったとか。

 

今のようにひとり1台テレビがデスクにあるわけではなく

居室に並ぶブラウン管を見る余裕はなく

「え?今、久米さん何て言ったの?」

ひとことの反響が凄まじかったのを今も思い出します。

その後やじうまワイドでフロアディレクター、

「見切れてる!」とインカムで怒鳴られる。

新聞切るのと貼るのがうまくなりました。

トゥナイトではオープニング映像の

テープを早送りしすぎて信号なくなって

(これ今の人わかるんだろうか、

 テープ走ってても信号入ってないとカウンター回らないのよね)

「タイトルでませーん」

プロデューサーの大声「スタジオ!ドン」

利根川さんと山本監督のえ?みたいな顔。

その当時はあるあるだと思ってましたが

いままで生放送でそんな放送事故みたことがないので

私はとんでもないことしました。(もちろん始末書書きました)

タイムキーパーもやらされて(無茶だよ)

インカムで放送後「いない方がマシだよ」

ですよねー、新人にやらせる方がオカシイですよ。

バブル弾けた後に開店したジュリアナのタダ券が共有テーブルに山盛り。

番組でよく取材していたし、

初の女性ADがお立ち台コンテストに出場みたいな企画を

立てられて、それは断りました。こえーよ業界は。

ジュリアナ、バブルの象徴ではないんですよね

今はごっちゃにされてますが厳密にいうと

まだ世の中がバブル気分から抜けきってない時オープン。

株価下落のニュースと上下するシャンデリアに積った埃が

リンクして記憶に残っています。

 

短いAD業務を経て

(ロケバスで地図読んでると酔う 

 生理痛が酷過ぎて、ロケ先で鎮痛剤をオーバードーズ、

 週一休みの深夜に歌舞伎町でTバック買えという指令、

 朝からロケで局戻って朝まで編集、

 このままじゃ子ども産めない体になる!無理でした)

 

次はTBSの選挙本部へ。

出口調査を各地のアルバイトに指示する役割で

ショルダータイプの携帯電話を送り

ファックスと手作業で集計していました。

PCは部署に1台くらいあったのかな。

そのPCをいじってページ開きすぎて壊しかけるくらい

選挙特番の日まで暇でした。

 

その後TBS系のプロダクション所属で

NHK関連団体へ。当時はまだ放送センター内に

関連団体の制作部がありました。

当時はお嬢さまスタッフが多く(花嫁候補か)

初日千円のランチを食べた後、喫茶店の八百円のコーヒー

割り勘です。ヤバイ、生活していけない!

 

当初は局規定の時給計算。

東京のひとり暮らしは無理。連休入ると大変です。

所属会社の上司に相談して(放送作家教室修了証あり)

企画書下書きなどをやって、別の生活費を確保していました。

翌年、プロダクション経由の業務委託になってほっとしましたが

今度は残業代や土日祝日手当がない。

 

プロダクション所属の契約社員も「非正規」なので

なんとか自力で「正規」になろうと

他業種の正社員を探しているなか

テープ運搬中に顔面から転倒、救急車。

女性の顔の傷、男性よりお高いんです労災見舞い金。

その労災で降りたお金を資本金にして

「社長」になりました。

たとえじゃなくて、転んでもタダでは起きねぇ。

 

東京住み35年を迎えて、

20年ちかく社長をやっていることになります。

それが良かったとは言えないんですよねぇ。

会社って安易に作ってはダメです。めんどくせー。

 

大晦日、紅白みないと。

よい年をお過ごしください。